びてきかんしょう()

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私がカミングアウトしない理由。

寒いし、テスト前だし、レポート山積みだし、ブログとか書いてられませんね。

そうそう、そういえば私先日フラッシュメモリなくしました。レポートを提出したばかりでバックアップをし忘れていたので泣きそうです。死へのハードルが下がりますね。

 

先々週のインターンシップ(行ってきたのです)、そして先週の金曜日のサークルでの集まり等、最近毎週金曜日には飲み会に出向いているような気がしてきます。

何が面白いのか(まあ面白いんですけど)皆さんはお酒が入ると、愛だの恋だのといった男女がらみのお話をする傾向にあるようです。大学生をはじめとする青年期の人たちにとって、共通の話題なので仕方ないのでしょうか。

私はこと恋愛問題に関しては少々特殊な道を歩んできたらしいので、「世間一般」の恋愛話にはついていけないことが多々あります。インターンシップで同じ班だった皆さんごめんね、でも興味はあるのよ。

けれども、私の経験を抜きにしても、一般的に語られる恋愛話にはどうしても馴染めない。違和感を感じる、と言われたくらいの違和感がするのです。

 

■最近の若者は性に寛容とか言ってるけどね

周りの恋愛話を聴いていると、1つだけ思うことがあります。それは、どの人もみな「倫理的に」あれをやっちゃいけない、これはありえない、と自分を縛っているということです。

「恋人に隠し事をしてはいけない」「恋人とは連絡を取り合うべき」「恋人がいる時は他の人に惹かれてはいけない」「別れてからすぐ他の人と付き合うのはどうかと思う」等々悩みは尽きないようですが、共通して言えるのは、どの人もみな、自分が勝手に作った倫理規範を守ろうとしている、ということです。

その倫理規範のルーツは、やはり「周りの雰囲気」だと思います。

人生経験の薄い若者は特に、自分の思考を友達や先輩など身近な人々や、取り巻く環境に左右されます。周囲に浮気をNGとする人がいれば「浮気はしてはいけない」「浮気は許せない」とルール付けされるし、恋人に一途でいることが美徳とされる環境下にいれば、自分の行動は恋人第一になるでしょう。

恋愛倫理以外にもこれは当てはまります。「誠実さ」を良しとすれば、私が上記で述べたことに眉をひそめる人もいるかもしれません。

幸か不幸か道徳教育の賜物か、こと恋愛関係に関するこういった倫理規範は、周囲を見る限り最近の若者にも共通なもののようです。そして、恋愛話は常にこの倫理規範を前提にして語られるゆえ、前提条件を持っていない人にとっては「この人たち何言ってるんだろう」という口ポカーン状態となります……そう、あの日の私みたいに。

以前と比べて、若者は性に寛容になったと言われているらしいですが、いくら会ったことのない性的マイノリティーや他人事の同性婚に忌避感を持たなくなったとしても、既成の倫理観に染められ、その規範を持たない人を排除していることには変わりない。他人が自分と同じ視点を持っていないことに、もっと人は気付くべきだと思います。人に「理解不能」とレッテルを貼るのは簡単ですが、それでは思考停止と同じではないでしょうか。

 

■私がカミングアウトしない理由

そうこれが本題でしたね。

カミングアウト、という言葉は「公にすべきではない(だろう)事を、勇気を出して告白する」という意味で使われています。そういった意味では、私にカミングアウトするべきことは一切ありません。けれども、「恐らく」言ったらカミングアウトになる内容だったら持っている……

 

私がそういった内容を公言しない理由は

・言っても今後の生活に何ら支障がない

・説明すると長くなる

・公言すると奇異な目で見られる可能性

・(あまつさえ)構ってちゃん行為だと思われる

 

という、言うことによってリスクしか負わない結果になるからです。

もしかするとこれは、上記で述べた「同じ規範を共有しない人々を除外する社会」に対する迎合かもしれません。けれども、わざわざ自分の手で社会的に生き残れる可能性を少なくしなくても良い。

人はカミングアウトをします。それは、自分の中で膨らむ「倫理観」に対する罪悪感を抱えきれなくなったからです。その言動によって傷つくかもしれない相手のことなんて、たいていの場合は二の次になっています。でも、よく考えてみるとその倫理規範を定めたのはほかでもない自分自身。傍から見ると、自分の妄想にハマってがんじがらめになり、あまつさえ周囲の他人を巻き込もうとしているだけに見えます。自分がその言動をする際に生じるメリットとリスクを考えているとはとても思えません。

そう考えると、大多数の思考停止している疑惑な人々にカミングアウトしても「排除される」リスクが大きいし、そもそもカミングアウトすること自体、「隠し事をしている」など自分に何かしらの非があることを認めることになり、カミングアウトするメリットが見当たりません。

それでも「カミングアウト」したいのなら、それへの理解を得られる環境を作ってから、カミングアウトだと受け取られない状態で言うべきだと思います。自分自身を、そしてカミングアウトによって傷つくかもしれない相手を守るためには「墓場まで持っていく」ことだってひとつの案ではないでしょうか。

 

さて、私のカミングアウトですが、まだいうべき時が来ているとは思えません。

「自分が楽しく生きる」ために、ある特定の条件を満たさないものを排除する社会をどう変えればいいのかと悩む日々はしばらく続きそうです。

ウフィツィ美術館展をみて思った。

先々週まで上野の東京都美術館で開催されていた「ウフィツィ美術館展」へ行ってきました。この展示はイタリア最古の美術館であるウフィツィ美術館に収蔵されている作品が中心で、15世紀ヴェネツィアで開花した、初期ルネッサンス絵画が主に展示されていました。

 

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古代ギリシアやローマの像や彫刻などから強い影響を受け、始まったルネサンス

人の表情や身体の線を描くことが不必要、またタブーとされた中世絵画とはうって変わり、ルネサンス期に入ると、人物の顔や身体表現に「人間らしさ」が生まれます。

人間性を描くことへの欲望は、今回特に数多く展示されていたボッティチェリの作品から強く読み取ることができました。『プリマヴェーラ』や『パラスとケンタウルス』を代表とする彼の作品には、15世紀の宗教画とは思えないほど、身体の線がやわらかく艶っぽい「女神」が登場します。描かれる眼差しには感情のいろが宿り、神や聖人たちに「人間として」の親近感さえ覚えるほどでした。

 

ボッティチェリが「生きた人間を描きたい」と思ったかどうかは定かでありませんが、当時は彼の所属した工房を中心に、数々の工房でよりリアルな人間を描き出すことに試行錯誤していました。また、身体表現そのものではなく、宗教画に人間性をいかに反映させるかということも新しい試みであるぶん、難題でもあったようです。

そこで、人間を描く際にどうしても生まれてしまうリアルさやエロティックさを覆い隠すためにも、寓意が使用されることになりました。

 

寓意とは、洗礼者ヨハネと十字架といった、聖人等を表す時や、受難を表す柘榴など、作品に裏の意味を持たせる際に描かれる像(アトリビュート)のことです。今回展示されている作品にも寓意は満載ですが、作品の人間らしさや艶っぽさを見ていると、「寓意」という建前のもと「人間」を描こうとしているようにも思えてきます。

当時の画家たちは教会や貴族の金銭的支援なしには何も描けず、パトロンからの要求に上手く応えなければなりませんでした。その中で彼らは、自分の表現したいものを作り出していくため、寓意を利用したのではないでしょうか。

ルネサンス期の芸術職人たちは、社会的風潮に合わせつつも、自らの手で新しい表現の領域を探り、現実からの乖離なしに変化を勝ちとります。こう考えると、彼らは芸術職人であり「リアリスト」とも言えるのではないでしょうか。

 

私たちは、自分の意思や感情を何かしらの形にするという行為を通して、他者に自分を発信します。この行為を通して人間は個々の表現から他者を理解し、他者から理解されていくのだと思います。

ボッティチェリの生きた15世紀も、私たちが生きている現代においても、芸術家を始めとする「表現者」は自分の表現領域を求めて試行錯誤しています。

特に、個々の主張が咎められなくなった現代では、さまざまな媒体を使った表現方法が可能になり、現代アートにおいても従来のように美術館や博物館といういわゆる「ホワイトキューブ」を使わずに、作品展示を行う作家も増えてきています。要するに、現代は自分の伝えたいことが最も「理解されやすい」方法を選ぶ、もしくは作り出すことが可能な時代といえます。

 

単に何かを作り出す行為は創造です。表現とは、それを何かしらに向けて「発信」し、他者へ影響を与えることなのではないかと思います。発信しても伝わらなければ意味はありません。私たちがひとりの表現者として、また工房のような表現者組織として、他者へ発信し理解されることを望むのなら、たとえ何度間違えたとしても、ありとあらゆる手段を試みる必要があるのだと思います。そう、私の所属する学内新聞発行団体でも。

 

表現者」は、社会に対する客観的な眼差しと、新しい表現領域への探求心の狭間で苦悩します。それはルネサンス期も今も変わらないようですね。

ボストン美術館浮世絵名品展~偉才、極彩、北斎~ へ行った。

暇だったので、小学生ですら1度はその名や作品を見たことがあるだろう浮世絵の名手、葛飾北斎の展示「ボストン美術館 浮世絵名品展 北斎」を観に、上野の森美術館へ行ってきました。

この展示では、北斎の初期の作品から晩年の作品までが順番に展示されていました。かの有名な「富嶽三十六景」シリーズや「雪月花」シリーズを始めとした有名な作品が多く、大人から子供まで楽しめる展示だったのではないかと思います。

今まで浮世絵に薄らぼんやりとしか興味を持っていなかった私でさえも、北斎の魅力には思わず惹きつけられてしまいました。そこで今回は、私が展示を通して感じた北斎の魅力を、今までの記事とは違った形で紹介したいと思います。

 

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北斎の魅力① 描写力

日本だけではなく世界でも人気の高い北斎の作品。その人気の理由は何よりも彼の優れた描写力にあるのではない科と思います。もちろん彼の作品がバラエティに富んでいることや、浮世絵自体の色彩の豊かさが、より作品の魅力を引き立てていることは間違いありません。しかし、北斎の人並みはずれた描写力によって、平面的な浮世絵に写真のようなリアルさが吹き込まれています。

たとえば、花鳥画シリーズのひとつ「芍薬とカナアリ」は、いうなれば江戸時代のスナップショットです。咲き乱れる芍薬の上をカナリアが飛ぶ一瞬を捉えたこの作品は、当時の絵の技法からは考えられないくらいの花の描写の緻密さ、そして躍動感が1枚に切り取られています。

よく浮世絵は平淡で、陰影がなくつまらない、という声を聞きます。確かに歌川広重など他の浮世絵画家の作品は、比較的陰影を廃し、人などの描写も画一的な場合が多いかもしれません。しかし、彼は、描く対象に対する緻密な描写と当時の浮世絵師が思いもつかなかった大胆かつ計算された構図によって、時代を先取りしたかのような作品を次々と生み出してきたのです。

 

 

北斎の魅力② 奇行

北斎は生涯にわたって、多くの改号をしたことで有名です。私たちの良く知る「北斎」という名前の他に「春朗」「群馬亭」「為一」「美浦屋八右衛門」「魚仏」など、なんと30回も名前を変えたと言われています。特に衝撃的な名前は晩年の北斎が好んで使用したという「画狂老人卍」。何を思ってこの名にしたのかは本人に聞いてみないと分かりませんが、作品に画狂老人卍などと署名されていたら目を疑います。2度見しても飽き足らない、というかフザけているのかとすら思う……

因みに北斎春画も描いており、その際の改号は「鉄棒ぬらぬら」。うわあ、なまなましい。

 

また、北斎の特筆すべき行動は他にもあります。引越し魔との異名をとる彼は、人生においてなんと93回も転居したと言われています。作品を描くために様々な場所へ赴き、本物を見ながら絵を描こうと思っていたのかもしれませんが、一説によると1日に3回引っ越したこともあったとか。江戸住民は比較的良く引っ越したとされているものの、さすがは北斎、わけわからん。

 

 

北斎の魅力③ 新しいものへの粘り強い挑戦

今も昔も並外れた描写力と構図の取り方で世界中の人を魅了している北斎ですが、その作品は簡単に生み出されたものではないようです。

たとえばチケットにも掲載されている「神奈川沖浪裏」の斬新な構図。これは、ドガなどの印象派画家にも影響を与えたといわれています。しかし、実はこの構図を完成させるまでには13年もかかっており、ひとつの作品に対する北斎の情熱が伺えます。思わずまねしてしまいたくなるような構図は、簡単には作られないんですね。

また、西洋絵画に多大な影響を与えたといわれている彼の作品ですが、彼自身も西洋絵画から様々な細かい技術を学ぼうとしていたようです。中でも顕著なのが「ぎやうとくしほはまよりのぼとのひかたをのぞむ」という作品で、これは、北斎が西洋のサインを真似て自分の署名を横書きにした研究の成果といわれています。

 

この展示はかなり前に終わってしまい、今は同美術館で「進撃の巨人展」を行っているようです。オキュラスリフトで巨人に喰われる恐怖を味わえるらしいので、ちょっと気になりますね。