びてきかんしょう()

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ウフィツィ美術館展をみて思った。

先々週まで上野の東京都美術館で開催されていた「ウフィツィ美術館展」へ行ってきました。この展示はイタリア最古の美術館であるウフィツィ美術館に収蔵されている作品が中心で、15世紀ヴェネツィアで開花した、初期ルネッサンス絵画が主に展示されていました。

 

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古代ギリシアやローマの像や彫刻などから強い影響を受け、始まったルネサンス

人の表情や身体の線を描くことが不必要、またタブーとされた中世絵画とはうって変わり、ルネサンス期に入ると、人物の顔や身体表現に「人間らしさ」が生まれます。

人間性を描くことへの欲望は、今回特に数多く展示されていたボッティチェリの作品から強く読み取ることができました。『プリマヴェーラ』や『パラスとケンタウルス』を代表とする彼の作品には、15世紀の宗教画とは思えないほど、身体の線がやわらかく艶っぽい「女神」が登場します。描かれる眼差しには感情のいろが宿り、神や聖人たちに「人間として」の親近感さえ覚えるほどでした。

 

ボッティチェリが「生きた人間を描きたい」と思ったかどうかは定かでありませんが、当時は彼の所属した工房を中心に、数々の工房でよりリアルな人間を描き出すことに試行錯誤していました。また、身体表現そのものではなく、宗教画に人間性をいかに反映させるかということも新しい試みであるぶん、難題でもあったようです。

そこで、人間を描く際にどうしても生まれてしまうリアルさやエロティックさを覆い隠すためにも、寓意が使用されることになりました。

 

寓意とは、洗礼者ヨハネと十字架といった、聖人等を表す時や、受難を表す柘榴など、作品に裏の意味を持たせる際に描かれる像(アトリビュート)のことです。今回展示されている作品にも寓意は満載ですが、作品の人間らしさや艶っぽさを見ていると、「寓意」という建前のもと「人間」を描こうとしているようにも思えてきます。

当時の画家たちは教会や貴族の金銭的支援なしには何も描けず、パトロンからの要求に上手く応えなければなりませんでした。その中で彼らは、自分の表現したいものを作り出していくため、寓意を利用したのではないでしょうか。

ルネサンス期の芸術職人たちは、社会的風潮に合わせつつも、自らの手で新しい表現の領域を探り、現実からの乖離なしに変化を勝ちとります。こう考えると、彼らは芸術職人であり「リアリスト」とも言えるのではないでしょうか。

 

私たちは、自分の意思や感情を何かしらの形にするという行為を通して、他者に自分を発信します。この行為を通して人間は個々の表現から他者を理解し、他者から理解されていくのだと思います。

ボッティチェリの生きた15世紀も、私たちが生きている現代においても、芸術家を始めとする「表現者」は自分の表現領域を求めて試行錯誤しています。

特に、個々の主張が咎められなくなった現代では、さまざまな媒体を使った表現方法が可能になり、現代アートにおいても従来のように美術館や博物館といういわゆる「ホワイトキューブ」を使わずに、作品展示を行う作家も増えてきています。要するに、現代は自分の伝えたいことが最も「理解されやすい」方法を選ぶ、もしくは作り出すことが可能な時代といえます。

 

単に何かを作り出す行為は創造です。表現とは、それを何かしらに向けて「発信」し、他者へ影響を与えることなのではないかと思います。発信しても伝わらなければ意味はありません。私たちがひとりの表現者として、また工房のような表現者組織として、他者へ発信し理解されることを望むのなら、たとえ何度間違えたとしても、ありとあらゆる手段を試みる必要があるのだと思います。そう、私の所属する学内新聞発行団体でも。

 

表現者」は、社会に対する客観的な眼差しと、新しい表現領域への探求心の狭間で苦悩します。それはルネサンス期も今も変わらないようですね。